機界の天使1


「あさですよー」
 少女は、眠りとは似て非なるまどろみの中にいた。
「おきてくださいですよー」
 厳密に言えば、少女の取っている行動は睡眠ではない。単に目を閉じ、意識を遮断しているだけ。しかし、その見た目は人間の睡眠とまったく同様のもの。だから目を閉じ、意識を遮断している少女も、それを起こそうとしている少女も、この行動を人間の睡眠と同じように扱っている。ならば朝の時刻に目を覚ますのは、至極当然というもの。
 人間と変わりなく、しかし人間とは違う存在の少女は、人間のそれと同じように、
 眠りから、覚めた。
「――はわっ!?」
 少女が、ベッドから飛び出した。瞬間、
 ゴチンッ、という鈍い音と衝撃が、突然頭を襲った。
「――いいいぃぃぃぃ……」
「――いたいですよ〜」
 二人の少女が、それぞれ自分の額を押さえながら唸っている。人間と同じように、痛がっている。眠っていた少女とそれを起こそうとした少女、起きた拍子にお互いの頭がぶつかったのだった。
「うう〜、ごめん、大丈夫ヒヨちゃん?」
「はい〜、大丈夫ですよ〜」
 痛みに耐えながら二人は顔を合わせ、互いの少し赤くなった額を見て、笑い合う。
 和やかな、朝の風景。
 朝は、誰にとっても慌しいもの。
「うわ、今何時!?」
 眠りからら覚めた少女が、慌てて時刻を確認する。目覚めてすぐそこにこの少女――ヒヨコがいるということは、彼女が起こしにくる時間までに、自分が起きられなかったということだ。
 つまりは、
「七時五分。残念ですけど……」
「寝坊したー!!」
 少女は、眠気も毛布も吹き飛ぶような勢いでベッドから飛び上がった。
 その、背中についた純白の翼で。
 行くべきところへ、飛翔する。
「あ、慌てるとまた――」
「うべしっ!?」
 ヒヨコの忠告も終わらぬうちに、ここが室内だというのも忘れて飛び出した少女は、扉に激突した。
  


「すいませーん! おはようございまーす!」
 寝坊への謝罪とともに朝の挨拶。
 自室を退室後、少女はそれから二回ほど壁に激突しながらも、今までの自己最速タイムで目的の部屋に到着した。
「おや、今日もまた寝坊ですか、カケラ君?」
 朝っぱらからのドタバタした訪問者に、部屋の主は笑顔を見せた。
銀の装飾具を施した白のロングコートに、ノンフレーム眼鏡というファッションの、長髪の男性。その三十代を思わせる渋めの声とは裏腹に、輝きを見せる笑顔は若々しい美男子のものだった。手に持ったカプチーノが、爽やかさを演出している。
そしてもう一つ、背中にはカケラと同じく、純白の翼の姿があった。
「すいませんすいません! 私ったら、また寝坊しちゃって」
「カケラ君、『すいません』は一回で結構ですよ。そんなに謝られたら、私のほうがまいってしまいます」
 男性は寝坊した少女――カケラを叱り飛ばすこともせず、ハハハッと笑って済ませた。怒りの感情など端から持ち合わせていないような、そんな笑顔だった。
「それに、今日はヒヨコも寝坊したようですしね」
「え?」
「あ、あうー、ご、ごめんなさいですよ〜」
 申し訳なさそうにする声とともに、一人の少女が息を切らしながら入室してきた。
 カケラよりも一回り小さな、黄色い髪の女の子。黄色いのは髪だけではなく、身に纏っている少し大きめの衣服、履いている靴、肩から提げられたポシェット、全てが同じ色で統一されていた。
 この黄色ずくめの少女、ヒヨコは、壁にぶつかりながらも高速で飛んできたカケラの後を、必死に走って追ってきたのだった。その速度はといえば自転車と車ほどの差があるので、ヒヨコが息を切らすのも当然といえた。
「大丈夫、ヒヨちゃん?」
「は、はいー。だいじょーぶですよー」
 男性の前とあってか、ヒヨコは急いで息を整えようとする。
 カケラとヒヨコにとって、目の前の男性――ミカエルは、目上の存在。それ相応の対応をするのは、あたりまえのことだった。
「さて、やや朝と呼ぶには遅い気もしますが、無事二人の『おはよう』が聞けたので良しとしましょう。次からは気をつけるように」
「はい!」
 二人揃って元気のいい返事だった。その二人の笑顔に、ミカエルも笑顔で返す。
「よろしい。ですがカケラ君」
「はい?」
「その姿で業務に望むのは……いささか感心できませんね」
「あっ……」
 言われて初めて気づいた。目に映る、今の自分の姿に。
 起床後、慌てて駆けつけたため、当然着替えなどしていないカケラの今の服装は……寝間着である。
「……き、着替えてきます〜」
 カケラの部屋を飛び出るスピードは、先程自室を飛び出したときのものを上回った。


(続く)