機界の天使2


 この世界は、たった一つ――『機界』のみ。
『地球』という惑星の、『天空』という部分に存在する、たった一つの世界。それが『機界』。
『機界』というたった一つの世界に存在するのは、住人が暮らす『タウン』、『機界』の中心に位置し、『機界』の管理人たちが住む『タワー』という名の高き塔、そして『なにもないばしょ』と呼ばれる立ち入り禁止区域。この三つのみ。この三つだけで、『機界』は構成されている。
 それは、『機界』に住む者ならば誰でも知っている常識。『機界』の住人は、このたった一つの世界しか知らない。なにせ、他に世界など存在しないのだから。知っている、など言ってみたところで、それは嘘っぱちだ。
「――しかしだ」
 遥か大昔には、『機界』の他にも世界が存在していた。らしい。
「いくつか例を挙げてみよう」
『魔界』、『天界』、『霊界』、『都界』、『政界』、『下界』、『深界』、『芸能界』など……どれも共通して『界』の文字がつく。ちなみに、それぞれがどんな世界なのかは、まったく分かっていない。
「その中でも、俺は一つの世界に興味を持った」
『人間界』。
「この言葉は、俺たち『機界』に住むものを表す『人間』という文字と、世界を表す『界』の文字で構成されている。これは、俺たち人間の存在していた世界ではないだろうか……と俺は推測する」
しかし『機界』の歴史上、『人間界』などという言葉はどこを探しても見つからない。他の『魔界』、『天界』などと呼ばれる世界もまた同じ。
「これは歴史の教科書にも載っている、周知の事実だ。だが『機界』の歴史の教科書には、一つ欠点がある」
 人間がどうやって誕生したか、が記されていないのである。
「人間はどこから生まれ、どこからやってきたのか。おっと、言っておくが俺は、どうやって人間、つまり赤ちゃんができるかって話をしているわけじゃない。一番初めの人間は、どうやって誕生したのかってことを言いたいんだ」
 保健体育の知識など、とっくに知れ渡ったテーマだ。身体の神秘など、医者にでも語らせておけばいい。
「この二つの疑問、『機界以外の世界の存在』と『人間出生の謎』は、密接な繋がりがあると思っている。それを解くキーワードこそが、この『神話の本』に記された、『人間界』にあると俺は思うのだ!」
 と、言い放ったが直後、
「――でもその『神話の本』って、書いてること全部デタラメだってママが言ってた」
「なっ!?」
「うちの姉ちゃんも言ってたー」
「お隣のおじいちゃんも言ってたー」
「なななっ!?」
「やっぱハルキは『嘘っぱち』だな」
「うん、嘘っぱちだ」
「やーい嘘っぱちー」
 大勢の子供たちに囲まれ、世界と人間について語る少年――ハルキは、さっきまでの熱弁を全否定された。
「ええい、黙れガキ共! お前たちがこのハルキ様の『新約・歴史講座』を聞こうなど百年早いわ! 小学校卒業してから出直してきやがれ!」
 自分より半分ほど年齢の低い子供たちに嘘つき呼ばわりされ、ハルキも黙っていられなかった。猛獣の雄叫びのように怒鳴り散らし、さっきまで自分の講義を聞いていた子供たちを容赦なく追いかけ回す。
 が、それも子供たちと大差ないハルキの小柄な体格では、今一つ迫力に欠けていた。
「は……は……ぜぇ」
 しかも、年相応の体力を持ち合わせていないハルキには、歴史になど興味のないアグレッシブな子供たちに勝てる要素がなに一つなかった。
 なので、当然こうなる。
「くっそ……な……なに食ってりゃそんな体力つくんだよ……」
「やっぱハルキはへぼっぱちだな」
「うん、嘘っぱちのへぼっぱちだ」
「もういいよ、行こうぜ」
 肩で息をするハルキを尻目に、年下の子供たちは散々言いたいことを言って去っていった。あとに残されたのは、情けない姿を公衆に晒すハルキ一人。
 これが、『タウン』中央広場での、よくある光景。
『機界』全体の大部分を占め、『機界』に存在する全ての人間が暮らす場所。それが、『タウン』。
ハルキはそのタウンの中央に位置する広場で、毎日のように『機界』の歴史について話していた。聞き手はその日その日の通行人だったり、暇な老人だったり、ハルキをからかう目的で寄ってくる子供たちだったり。どんな日でも、ハルキが話しだせば誰かしらが耳を傾けた。
しかし、そのほとんどがハルキの話を信じてはいない。なぜならば、ハルキが語る歴史は実際の史実にはないものだから。
この世界はたった一つ。『地球』という惑星の、『天空』という部分に存在する、『機界』のみ。誰もがそう習い、そう語り継がれてきた。『人間界』などという単語は、歴史の教科書にも辞書にも載っていない。
だが人々が知っている歴史というのも、とても浅いものだった。歴史の教科書に載っているのも、せいぜい『タウン』の間で流行った出来事だとか、歴代の著名人の名前のみ。誰も『人間出生の謎』など知らない。知ろうともしなかった。唯一一人を除いては。
「たくっ、これだからガキに聞かせるのは嫌なんだ」
ハルキだけが違った。
他の人間は、どうでもいい、と思って解明しようとしない歴史の謎に、ハルキは深く興味を持った。
なぜ誰も知らないのか? なぜ誰も知りたがらないのか? ハルキにはそれが不思議でしょうがなかった。
人間はどうやって生まれたのか。
世界は本当にたった一つなのか。
そもそも『機界』とはなんなのか。
――こんなにも謎があるというのに。
とても頭のいい学者も、「ははは、そんなことは誰にもわからないよ」とハルキを笑い飛ばした。他の人間たちもまったく同様である。そんなことは絶対に知ることなどできない。誰もがそう思っていたのだ。ハルキ以外の誰もが。
さすがのハルキも、自分の考えに自信がなくなってきた時期があった。誰からも「わかりっこない」と否定され続ければ、そんな気持ちにもなる。
それでもハルキの探究心が折れないのは、支えとなるものが二つあったからだ。
一つは、ハルキに『機界』以外の世界の存在や、『人間界』という単語を教えた『神話の本』という書物。
そしてもう一つは、
「――あ、もう終わっちゃいましたか? ハルキの歴史講座」
 ハルキの語る推測の歴史を、唯一真剣に聞いてくれる少女の存在。
「ようカケラ。随分と遅いご登場だな」
「うっ、そ、それは言わないでぇ……」
 上空からハルキの前に舞い降りたのは、穢れを知らない白色の、ワンピースのような制服に身を包んだ少女。寝坊したためにいつもより遅れて登場した、背中に純白の翼を持つ《天使》、カケラだった。
「残念ながら今日の『ハルキ様のためになる歴史講座』は終わりだ。たった今、散々ガキどもに馬鹿にされたばかりだからな。アンコールもなしだぞ」
「えぇー」
 カケラは起床後にミカエルへの挨拶を済ませると、真っ先にここにやってくる。朝の時間帯に行われることの多い、ハルキの歴史講座を聞くためだった。
「そんなこと言わないでぇ」
「駄目! どうせ今日も寝坊したんだろ? こんなところで油売ってるとミカエル様に怒られるぞ」
「うう……それは嫌ですどぉ……」
 カケラはハルキが話す話を、毎日楽しみにしていた。他のものが戯言としか思わない、ハルキの話を。本当に、心の底から楽しみにしていた。
 はたからしてみれば、「変わり者」。ハルキからしてみれば「よき理解者」。
 ハルキ自身も、やはり自分の話を親身に聞いてくれる存在がいるのは嬉しい。だからカケラをぞんざいに扱うことは普段はしないのだが、あいにく今日のハルキは超がつくほど不機嫌だった。
「おねがいー、ハルキのお話聞きたいなー」
「……」
 とはいっても、この少年、根は優しい。こうも純粋な気持ちで頼まれて、無下にはできなかった。
「……仕方ないな」
「じゃあ!」
「三日後だ」
 ハルキがビシィッと、カケラの眼前に三本の指を突き出した。
「三日後、この中央広場で『ハルキ様の歴史講座すぺしゃる』をやる予定だ。カケラにはその最前列の指定席をくれてやろう。だから今日はもう行け」
「すぺしゃる?」
「そう、すぺしゃるだ。すぺしゃるは凄いぞ。まだ誰にも話していない超重大事実の発表もある。いつもより衝撃度九割り増し……いや、三倍だ!」
「三倍も!?」
「三倍もだ。なんていったってすぺしゃるだからな。そこの最前列だぞ。一番に衝撃を感じることのできる席だ」
「さ、さすがすぺしゃる……うん、わかった。じゃあ私は素直に仕事に戻ることにします。そのすぺしゃる、楽しみにしてるね。じゃ!」
「おう! お前もがんばれよ」
 カケラは驚くほど素直に了承し、背中の翼を羽ばたかせて飛び去っていった。
 純粋に、ハルキの歴史講座すぺしゃるを最前列で聞けることを楽しみにして、飛び去っていったのだった。
 子供でもここまで聞き分けのいい者は珍しい。おそらく『機界』で一番純粋。それが、カケラという少女。
 ハルキとしても、そんなカケラをがっかりさせるようなまねはしたくない。あれだけキラキラした目で期待されると、逆にプレッシャーすら感じてしまう。
「さて、あいつのためにもとびっきりのネタを用意しておかないとな……」
『タウン』中央広場での、朝の風景だった。

(続く)